人気ブログランキング |

<   2016年 04月 ( 10 )   > この月の画像一覧

17世紀のフランスの洋書

d0335577_13115491.jpg

堀之内先生に分けていたゞいた

17世紀初頭のフランス語の紙片

カメラ撮影の際に

バックの小道具に使ふらしい

この活版印刷の味が堪らなく好き・・
















by mantaiya | 2016-04-18 13:13 | Comments(0)

フイルムカメラ



d0335577_12571206.jpg


モノクロのフイルムカメラで

ハッセルを使ふのが夢ですが、

當分は、仕事中心で

デジタルカメラ一本です。
デジタルのカラーは本當ではない・・
眞實の色はモノクロで察する
















by mantaiya | 2016-04-18 12:52 | Comments(0)

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ





秋の田の  かりほの庵(いほ)の  苫(とま)をあらみ

我が衣手は   露に濡れつつ


天智天皇


歌の鑑賞と真意

 


 「百人一首」の第一番を飾る歌は天智(てんち)天皇の禦製(ぎよせい)です。天智天皇といへば、「大化の改新」の立役者として歷史に名を殘した天皇です。「大化の改新」のとき、天智天皇は卽位する前で、まだ中大兄皇子(ナカノオホエノワウジ)と名乘つてゐました。


・・・・・・・・


前書きが長くなりましたが、ここから歌の解說に入ります。


多くの解說書ではこの歌の意味を「假小屋の屋根を葺(ふ)いた苫(とま)の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてしまつたよ」と解釋してゐます。つまり、「小屋が粗末だから、ワシの着てゐる服が露で濡れてしまつたぢやないか」といふわけです。

歌の表面的な意味は、確かに閒違ひではありません。ですが、これではまるで、そんな場所に案內した部下の不手際を、天智天皇がとがめて文句を言つてゐるみたいです。

・・・・けれど、本當にその程度の歌なら、どこが「名歌」であり、「百人一首」の冒頭にふさはしい歌なのでせうか。千年以上の長きにわたつて人々から愛され續けたのでせうか。この歌には、もつと違ふ意味があるのではないでせうか。


歌を詳しく見てみます。初句は「秋の田の」です。秋は稻の收穫の季節です。そして、「かりほ(=刈り穗)」と續くのですから、田んぼの稻が刈られたあとの時期であることが分ります。その刈り取られた田んぼの脇に、庵(いほり)があるわけです。小さな「草庵」のやうなものが聯想されます。


 問題は「苫(とま)をあらみ」です。「苫」といふのは、藁(わら)や茅(かや)などをござのやうに編んで屋根を葺(ふ)くのに用ゐられたものです。「~を~み」は「~が~なので」といふ意味ですから、「苫が粗いので」となります。また、「あらみ」は「あらい(粗い)」と「あみ(編み)」を掛けてゐるので、「ござを編んでゐる」といふ意味にもなります。


・・・・・・


そのため刈り取つた藁(わら)は、籾(もみ=お米)の收穫のあと、田んぼで天日(てんぴ)干しして乾燥させます。このとき田んぼにできるのが、「稻むら」です。「稻むら」は、稻刈り後の田んぼに形良く藁(わら)を結んで干したものです。かうして乾燥させた藁(わら)は、今度は夜露に濡れないやうに、田んぼの脇の庵に運び込みます。その庵の中で、人々は藁(わら)を編んで、ござや繩、わらぢや、冬のためのかんじき、雜囊(ざつのう)袋などを作り、生活に役立てるわけです。ここまでが上の句です。


そして天智天皇は、下の句で「我が衣手(ころもで)は露に濡れつゝ」と詠んでゐます。「私の袖」が「露に濡れてゐる」と、はつきり書いてゐます。なぜ、濡れたのでせう。作業場を視察しただけなら、袖も手も濡れることはありません。さうではなく、天智天皇ご自身が長時閒、自ら苫(とま=ござ)などを編んでゐたからこそ、袖が濡れたのです。さうでなければ、袖も手も濡れません。

その袖や手を濡らしたのは露です。寒い時期になると、夜になつてからは夜露、早朝は朝露がたちます。ですが、歌には、夜露か朝露かは書いてありません。ただ「露」とあるだけです。といふことは、天皇は朝早くから夜遲く、つまり太陽が出てゐない時閒帶に、粗末な庵の中でご自身の手で藁(わら)を編んでゐたことが、この歌から分ります。

天皇が自ら編んだござは、天皇ご自身や、天皇のご家族が使ふものだと分ります。

天皇は我が國の最高權威であり、我が國で一番貴い方です。その天皇が外が暗い時期に、粗末な庵の中で、自らの手を濡らし、袖を濡らしながら、家族が使ふござを編んでゐるのです。

それだけではありません。作業場でござを編むくらゐなのですから、おそらく天智天皇は、田植ゑから、田の雜草取り、稻の刈入れから、藁の天日干し等、民と共に農作業をしてゐたであらうことが、この短い歌の中から讀み取ることができます。

そして民と一緖に働いた天智天皇は、私たち民衆こそが「おおみたから」であることを、初めて具現化した、世界史上でも類(たぐひ)まれな偉大な天皇なのです。


日本の平均氣溫といふのは、だいたい六百年ごとに暖かくなつたり、寒くなつたりしてゐます。天智天皇の時代はとても寒い時代でした。しかも、歌の季節は「かりほ」の秋です。刈入れが終はつた頃といふのは、朝晚がめつぽふ冷え込みます。

その寒い中で、日の昇らぬ早朝から、もしくは誰もが寢靜まる深夜まで作業をしてゐる。これが我が國の最高權威である天皇の姿です。

それを考へれば、私たち庶民は、やれ暑いだの寒いだの、雨に濡れるだの手が汚れるだのと、我がままなんて言つてゐられません。とにかくみんなと一緖に默つて働くしかない。これが君民一體(くんみんいつたい)です。さういふありがたい歌が、「百人一首」の一番歌なのです。

「上に立つ者から率先して働く」

「上に立つ者は常に民と共にある」

さういふ歌だからこそ、「百人一首」の筆頭を飾る一番歌として、また子供たちへの敎育用として、まことにふさはしい名歌として、千年の長きにわたつて多くの人々に愛され續けてきたのです。




コメント

ここに一般的な譯を揭載してみやう



http://www.caruta.net/number/karuta01-10/


https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/001.html






上記の學校で敎はつた一般的な譯で我々は感動するでせうか?

テストに出るからと丸諳記しても、そこには何の喜びも敎へも無い。

戰後、古文をつまらないモノにしてしまつた罪は根深い。




by mantaiya | 2016-04-11 21:38 | Comments(0)

ねずさんの日本の心で読み解く百人一首



d0335577_11481352.jpg
百人一首の概念が変わりました!
学校で習つてきた
表面的な字面を追つた訳ではありません。
その言葉の裏に潜む歌詠みの眞意を
見事に敎へてくれます。
あれほど高校時代に嫌ひだつた
古文が好きになりさうです。


http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E3%81%AD%E3%81%9A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E3%80%8C%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96%E3%80%8D-%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%99%82%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%B0%8F%E5%90%8D%E6%9C%A8-%E5%96%84%E8%A1%8C/dp/4434205404/ref=sr_1_9?s=books&ie=UTF8&qid=1460213801&sr=1-9&keywords=%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96



Amazonのコメント欄より↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古来の日本語である、大和言葉の流れるような美しさ、その代表が和歌なのでしょう。
戦前には誰もが疑わずして、ねずさんの様に解釈ができていたのかもしれませんね。
たった70年のうちに、日本人が無くしてしまった大切な宝物を、この1冊の本で取り戻せた気がします。
今は枕元に置いて、千年前の同じ血の繋がり 魂の繋がり 時の繋がりを感じています。
日本人の縦軸を取り戻す、道しるべになってくれる1冊です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

学生時代に暗記した百人一首。暗記はしたものの、ずっともやもや感を感じていました。歌の現代訳を読む限り、面白くなく、なんでこんなもんが文学として学ばれ続けてきたのか理解できなかったのです。ところが、ねずさんの動画で持統天皇の2番歌の説明を聞いてとても感動し、早速購入しました。
この本を読んで、百人一首の奥深さ、面白さがわかってきました。ひとつひとつの説明が腹にすとんと落ちて、感動するのです。改めて日本の素晴らしさを感じています。学生時代に学んだ百人一首の説明、現代訳は何だったのでしょうか?百人一首を嫌いにするための教育がなされている現実に疑問を感じます。
一人でも多くの人がこの本を読み、百人一首の素晴らしさに気づいてもらえればいいな、と思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



by mantaiya | 2016-04-10 08:38 | Comments(0)

旧仮名遣いと旧漢字に徹底的にこだわった森鷗外

三島由紀夫って新仮名遣いでしか読んだことないんですけど、旧仮名遣いで読んだ方が良いですか?

元々本人が書いたのは旧仮名遣いだったはずですよね?

ベストアンサーに選ばれた回答


編集あり2013/4/520:11:09

これは質問者さんのおっしゃる通りなのですが、三島由紀夫に限った話ではなく、戦後に作品を発表した作家でも読み書きを覚えたのが「旧仮名遣い・旧漢字」の時代だった作家にも当てはまる問題であり、ましてや、明治・大正生まれの全ての近代文学作家に当てはまる大切な問題です。

三島由紀夫の「英霊の聲」の直筆原稿の写真を見ても、もちろんすべて「旧仮名遣い・旧漢字(本字)」であり、漢字も「声」などという略字ではなく「聲」という由緒正しい漢字を使って書いています。
戦後の占領下で、仮名遣いと本字を変えてしまったのは日本人にとって不幸な過ちだったと思っています。

当たり前すぎる話ですが、日本の近代の作家はすべて「旧仮名遣い・旧漢字(本字)」で作品を書いてきました。

原作者の表記通りの「旧仮名遣い・旧漢字」で作品を読めば、「日本の古くからのあらゆる古典文学作品と現代までの文学作品とは全く同じ日本語で書かれていて、なだらかにつながっている」という当たり前のことは自然にわかるのに、作品を「新仮名遣い・当用漢字」表記に変換してしまうことで、そんな当然のことさえ見えにくくなって、古典ではない樋口一葉や森鷗外の作品に「現代語訳」ができてしまうほど日本人の自国の文学作品を読む力が衰えてしまっています

「日本の古典文学作品は日本の現代文学作品と全く同じ日本語であり、直接つながっているのだ」という自国の文化さえ分からなくなってしまっている事が一番大きな問題だと思います。
だから「古典文学」を何か特別なものだと誤認してしまい、古典文学を自然な母国語の文学作品だと認識できない人たちがたくさんいるという惨状になってしまっているのだと思っています。

三島由紀夫だけでなく、夏目漱石森鷗外谷崎潤一郎も、新仮名遣いと略字とで自分の作品を読まれるのは非常に不本意だと思いますし、旧仮名遣いと旧漢字に徹底的にこだわった森鷗外はさぞかしあちらで腹をたてているだろうと申し訳なく思い、原作者の書いた表記とは違う表記で作品を読むのは失礼なことだとも思うのですが、現在は新仮名遣い・当用漢字での出版物がほとんどで、「旧仮名遣い・旧漢字」にこだわっていては読める作品が限られてしまうので、便宜上致し方なく「新仮名遣い・当用漢字(略字)」変換テキストで作品を読んでいるのが実情だと思います。

三島由紀夫だけでなく、漱石・鷗外などすべての近代作家の作品が本人の表記通りに出版されれば一番良いと思いますが、現状では難しいので、私自身も困りながら明治以降の多くの作家の作品を「新仮名遣い・当用漢字」変換テキストで読んでいます。

色々な作家の作品をたくさん読みたいと思うと、日常持ち歩きやすくて移動中いつでも読める文庫本や電子書籍などをつい多用してしまいますが、文庫本や電子書籍は基本的に「新仮名遣い・当用漢字(略字)」で表記されています。
パソコンのソフトの問題があるので電子書籍では難しいことは承知していますが、読書の楽しみを書斎の机の上だけに閉じ込めてしまうのはもったいないので、日常手軽に文学作品を読める文庫本や電子書籍こそ、日本の近代作家の作品を「旧仮名遣い・旧漢字」で原典通り表記してほしいと、困りながら願っています。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11105078616





by mantaiya | 2016-04-09 07:13 | Comments(0)

ひさかたの光のどけき

d0335577_13011184.jpg


d0335577_12570227.jpg

わたしの妹の末っ子が
小學校の修學旅行先で作つてきた湯飮み茶碗
實家の母の寶物になつてゐます
彼は小學校6年生で百人一首をすべて諳記してゐました
お正月にカルタ取りをしても負けてしまつた
今日は彼の入學式です











by mantaiya | 2016-04-08 08:18 | Comments(0)

朝ドラの影響で百人一首を

本日の朝ドラ「とと姉ちやん」の影響で

百人一首の毛筆書を探してゐます

變體假名も入つてゐて非常に美しかつた


無かつたら手書きで作つてみやうかな・・

※数日後、NHKに問ひ合せたら白札に現代の書家が書いたオリジナルのやうです。

その書家の字が好きでした。あんな字が書けたらと夢を見ます。




d0335577_08364424.jpg

映畫を觀て來ました!

百人一首は覺えてゐないのでこれをきつかけに學びたい。


http://chihayafuru-movie.com/


畫」の書き順
http://kakijun.jp/page/E160200.html




by mantaiya | 2016-04-07 08:30 | Comments(0)

栗﨑 曻「花の教科書」(絶版)

d0335577_11322515.jpg
栗﨑 曻先生の晩年の本です
茶道で鍛え上げた生け花が楽しめます


d0335577_11542864.jpg
酔花(絶版)

d0335577_11571896.jpg


by mantaiya | 2016-04-03 11:33 | | Comments(0)

卯月(うづき)



d0335577_17433371.jpg

by mantaiya | 2016-04-02 17:42 | その他 | Comments(0)

三島由紀夫の国語教育論

「三島由紀夫の国語教育論」


三島は、戦後の政府により1946年(昭和21年)に改定された「現代かなづかい」を使わず、自身の原稿は終生、「旧仮名遣ひ」を貫いた。三島は、ことばにちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したら、もうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したため古典が読めなくなったと述べている。また敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した志賀直哉については、「私は、日本語を大切にするこれを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と批判している。


 国語教育についても、「現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつたヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」と述べている。そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄している。三島は、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」と、文部省の役人や教育学者を批判し、自身の提案として、「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつてもらひたい」と述べている。

「午後の曳航(えいかう)」などを翻訳したジョン・ネイスンは次のように評している。


 「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定したのだ」。


 「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡(はいちやく)の苦悩であった」。


http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/mishimayukioco/kokugokyoikuronco.html


by mantaiya | 2016-04-01 06:34 | 思想 | Comments(0)