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カテゴリ:本( 53 )

書の心得

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タイトルの字に憧れて購入したら
(「高」の草書と垣野の「野」の草書に引き込まれた)
手本の印刷は左程、良くなかった・・しかし、
最後の識者による論評に深く考えさせられた

以下、書き写したい




高野切第一種  春名好重


高野切は古今集を書写している。・・・

現代の書家は自己を主張する心が強いので、つまらない書でも、麗々しく筆者の雅号(がごう)を書き、印を押している。古人はすぐれた書を書いても、たいてい筆者の名を書かない。古人の書はたいてい写本である。現代の書家の書は「作品」である。それゆえ、古人と現代の書家とは書に対する考えが違うのである。

高野切の真の筆者は判らないのである
・・・・・
 書は手で書く。それゆえ、手の練習さえすれば、立派な書が書けると思っている人が多い。しかし、手を動かすのは心である。生活態度がよくならなければ、立派な書は書けない。手先だけの器用な書は深みが無い。そして、魅力が無い。高野切はじょうずな書である。さらに高雅な書である。手先だけの書ではない。高野切が尊重され、愛好されるのは当時の貴族階級の高雅な心をしのぶことができるからであり、優美な生活のあらわれであるからである。高野切を仮名の手本と見るだけの人には高野切のよさはわからない。

 書を見る場合、たいていの人はどのように書いているかということしか考えない。それだけでは書の表面しかわからない。どのような態度で書いたかということを考えなければならない。生活態度を考えなければならない。目に見えない筆者の精神生活がわからなければ、目に見える書もわからないのである。源氏物語をよく読みもしないで、藤原時代の貴族階級と源氏物語とを結び付けてしまう。それは大きな誤りである。源氏物語は藤原時代の貴族階級の一面だけを描写しているに過ぎない。もっと広く、貴族階級の生活全体をよく見なくては、貴族階級の理解ができない。貴族階級の理解が無くては、貴族階級の書はわからない。目に見えるものはもちろん、目に見えないものもよく見なければならない。









手先の書に走っていた自分では
うまく書けないのは当然であったことが
解りました。









by mantaiya | 2020-03-02 20:02 | | Comments(0)

谷崎潤一郎「文章讀本」

學生時代にこの本を讀んで

舊漢字・舊假名遣ひが本當の日本語ではないかと

直觀的に氣附くのです。

ここから舊漢字・舊假名遣ひの本を集め出します。





谷崎潤一郎「文章讀本」_d0335577_08383690.jpg

着物・舊漢字・舊假名遣ひ・・・

戰前までは日常的だつたものが

戰後から否定されていきます。


戰爭は文化まで崩潰させるのでせうか。

あつてはならない事です。







by mantaiya | 2020-02-05 09:05 | | Comments(0)

平安朝かな名蹟選集第29巻 大字和漢朗詠集切 (大型本)

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大字和漢朗詠集


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高野切第一種系は
しつかりとやり込む














by mantaiya | 2020-02-03 16:47 | | Comments(0)

日本名跡叢刊〈16〉平安 深窓秘抄 (1978年)

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日本名跡叢刊〈16〉平安 深窓秘抄 (1978年)_d0335577_16422825.jpg

深窓秘抄


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日本名跡叢刊〈16〉平安 深窓秘抄 (1978年)_d0335577_16425023.jpg


高野切第一種と同じ書き手ではと
言はれてゐる上記2册は
いづれやらないといけないと
贖入を決意

眺めてゐるだけでも
ヒントが頂けさうな
見事な筆使ひである















by mantaiya | 2020-02-03 16:40 | | Comments(0)

高野切小字典(木耳社)




高野切小字典(木耳社)_d0335577_08585232.jpg
↑Amazonで古本を五百円で購入しましたが
その後、1万円以上に価格が変更されていました


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「ノド」の接着の仕方が緩いので
すぐに外れる欠陥品です

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↑高野切第1種を究めたくて購入しました
雅(みやび)な中に芯の強さがある
これほど美しい仮名文字は見たことがありません


















by mantaiya | 2020-01-19 07:35 | | Comments(0)

古典文学読本 (三島由紀夫)

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 私は一度も人に强ひられて日本古典文學の勉强をしたことはない。むしろ私が古い日本語の美しさに目ざめたのは、中學一年生のころ祖母にはじめて歌舞伎へ連れて行かれ、同じころ母方の祖母に能見物に連れて行かれたところに發してゐるやうに思ふ。歌舞伎は「忠臣藏」であり、能は「三輪」であつた。そしてその二つともに私は直ちに魅了され、少しの退屈も感じないのみか、以後折あるごとに兩祖母や母にねだつて、劇場へ連れて行つてもらふやうになつた。

 古い日本語がなめらかに耳にはいり、少年の感受性に「言葉の優雅」といふものを强く刻印したのは、劇場と俳優の力であつたと思ふ。しかし私が文學としての淨瑠璃や能に親しみはじめたのはずつとあとのことだ。
 何か趣味的に擬古典主義といふものが、私の中に育つてゆく素地が養はれたのは、一つはかういふ劇場の力、一つには谷崎潤一郞氏の中期以後の作品の魅力のおかげであつた。谷崎氏の作品を通じ、またその「文章讀本」を通じて、私は日本古典に對する好奇の目をひらかされて行つたのである。

わが古典---古典を讀む人々へ

 古典と云ふと、萬葉集、源氏物語、近松、西鶴と云ふばかりが能ではあるまい。自分で讀んで、自分の好みの古典を見つけるべきである。國語學者の常識的解釋などにたよつて古典を評價しないこと。
 私の好みからいうと、古今集がまず面白い。古今集の美學は、本當の意味で古典的なものである。情緒的でなく知的であり、均整美に集中され、新古今集のやうなデカダンスがない。平安朝文學では、もう一つ、大鏡をあげておく。線の太い文體で、引きしまつてゐて、何度讀んでも含蓄がある。


最近、松村剛氏が淺野晃氏の「天と海」を論ずる文章を書くに當つて、私にかう問うたことがある。大東亞戰爭末期につひに神風が吹かなかつたと云ふこと、情念が天を動かしえなかつたと云ふことは、詩にとつて大きな問題だが、さう云ふ考への根源はどこにあるのだらうか、と。
私は直ちに答へて言つた。これは古今集紀貫之の序の「力をも入れずして天地を動かし」だ、と。
私は直ちに答へた。どうして直ちに答へることができたか。ここに私と古今集との二十年以上の結縁(けちえん)があるのだと思ふ。
二十年の歳月は、私に直ちにさう答へさせたほどに、行動の理念と詩の理念を縫合させてゐたのだつた。
もし當時を綿密にふり返つてみれば、私は決してさうは答へなかつただらう。なぜなら古今集のその一句は、少年の私の中では、行動の世界に對する明白な對抗原理として捕へられてゐたはずであり、特攻隊の攻擊によつて神風が吹くであらうといふ翹望(ぎょうぼう)と、「力をも入れずして天地を動かし」といふ宣言とは、正に反對のものを意味してゐたはずだからである。正確に想起すれば、十七、八歲の私の中で、「力をも入れずして天地を動かし」といふ一句は、ただちに明月記の「紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾事に非ず」といふ一句につながつてゐたのである。
 ではなぜ、このやうな縫合が行はれ、正反對のものが一つの觀念に融合し、ああして私の口から自明の卽答が出て來たのであらう。
 いふまでもなく、それは、つひに神風が吹かなかつたからである。人閒の至純の魂が、およそ人閒として考へられるかぎりの至上の行動の精華を示したのにもかかはらず、神風は吹かなかつたからである。
 それなら、行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか。力をつくして天地を動かせなかつたのなら、天地を動かすといふ譬喩的表現の究極的形式としては、「力をも入れずして天地を動かし」といふ詩の宣言のはうが、むしろその源泉をなしてゐるのではないか。
 このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもつとも淸冽(せいれつ)な詩ではあるが、行動ではなくて言葉になつたのだ。




三島由紀夫著「古典文學讀本」






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【店主の感想】

私も三島由紀夫氏のやうに大學時代に谷崎潤一郞の「文章讀本」を舊漢字・舊假名遣ひの復刻版で讀んでからその魅力にハマり、今でも拔け出せなくなつてゐる。


益荒男(ますらお)がたばさむ太刀の鞘鳴(さやな)りに幾とせ耐へて今日の初霜


散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐



















by mantaiya | 2020-01-19 00:05 | | Comments(0)

花の誘惑

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1989年6月1日発売
BRUTUS
「花の誘惑」






この雑誌に掲載された
栗崎昇先生のコメントをご紹介しよう


花とはまったく淫蕩な生き物です。そして、不気味で怖い。怖いからこそ、わたしは花をいじられるし、活けられるといってもいいでしょう。美しさとは本来そういうものだと思うのです。例えば、ランの花弁に指を突っ込むと、思わず食いつかれそうな錯覚に陥ってしまいます。それでも指を入れずにはいられない衝動。実際わたしはこの怖さによって、官能を刺激され、思わず手掴みしたいという衝動に駆られながら、ほんとのところは花との睦言に生きているのかもしれません。ところが、花ほど難しいものはないんですね。花はとても自己主張が激しいんです。とり澄ましたもの、凛としたもの、げびたもの。同じ花でも一本一本違います。花を活けることとは、そんな花を調教し、表情を操ることだと思うんです。それは花に対する博愛がなければできないことなんです。女性は花に対して残酷ですね。美しいものに嫉妬してしまうんでしょうか。切り花を観ることは、やがて死にゆくものの姿を見つめることですから、真剣に見守ってあげたいと思っております。 (花師)















by mantaiya | 2019-08-13 06:59 | | Comments(0)

言海

永井荷風曰く、
「小說家になりたかつたら大學に行く必要はない。
言海と森鷗外の小說を1日1頁、讀めば良い」



言海_d0335577_18023865.jpg

↑こんなに程度が良いのはありえない



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復刻版がちくま學藝文庫から出てゐるが、買つてはいけない。
字が小さく舊假名遣ひが讀みづらい↓

言海_d0335577_22412199.jpg


↑活字が小さすぎて・・買つてはいけない

原書を縮小コピーして

ペーストしただけのなんら努力もなしで

仕上げた本には感動はない

筑摩書房にはサイズも紙質も

當時の儘にすることが復刻版であるといふ

認識がないのは殘念である



古書で探すしかないが、中型本が精々で
大型本は、ほとんど手に入れることは出來ない。
マニアがゐるやうだ。





WEB 言海
http://www.babelbible.net/genkai/genkai.cgi
↑變體假名に違和感なく付いていけるか
それがカギ・・


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Amazonのカスタマー・レビューから



2004年5月13日

書店で見つけて驚いた。

言海は芥川が遊んだことで有名な辞書である。

開高健も大いに愛読した

大言海になってだめになったとも書いている。

本書の貴重な解説にも大言海は別物としている。

はっきり言って実用には何の役にも立たない辞書である。

だが読んで楽しく遊べる辞書が他にあるだろうか。

昨今、類語辞典などが読んで楽しいとうたっているが

ちゃんちゃらおかしい。

言海の深さを知らないのである。

本書は小型版の復刻。

それゆえ文字の小ささ擦れはいたしかたないだろう。

解説が勉強になる。

読んでオリジナルが欲しくなった。

神田の古書店で中形を見つけた。

いや、探し当てた。

昭和5年発行、551版と奥付にある。

店主によれば昭和30年まで発行されたそうだ。

その数、1000版。

大形を千版すべて蒐集しているコレクターがいるそうだ。

だから価格が大形だけ別格なのだ。

この辞書には日本語の何というか本質のようなものを感じる。

江戸語から日本語に変わった節目のようなものを感じるのだ。

実用を求めるなら電子辞書の広辞苑でいいだろう。

この文庫から言海が見直され大形が復刻されないものだろうか。


文字の大きさはやはり大形が見やすくていい。

ちくま学芸文庫はニッチな企画を通してくる。

いい文庫だ。

139人のお客様がこれが役に立ったと考えています

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2018年1月23日
形式: 文庫Amazonで購入

『言海』は、欧米流の文法理論に基づき、言葉の発音・品詞・語源・語釈・出典の5点を明らかにする趣旨で、国語学者・大槻文彦がほとんど独力で完成させた初めての近代的国語辞典として名高いが、現代の国語辞典の常識からするとかなり戸惑う点がある。


①『言海』は、言葉を「いろは」順ではなく、五十音順に配列しているが、現在の「い」で始まる語は、ア行の「い」とワ行の「ゐ」に分けて表記されており、同様に、「え」で始まる語は、ア行の「え」とワ行の「ゑ」に分けて表記されている。つまり、『言海』は、古語辞典と同じように歴史的仮名遣で配列されており、「井戸」ならワ行の「ゐど」で、「笑顔」ならワ行の「ゑがほ」で引く必要がある。当然、ハ行にも注意が必要で、「家」は「いへ」で引くことになる。


②『言海』が出版された明治19年(1886年)当時は、平仮名の字体がまだ統一されておらず、さまざまな変体仮名が使用されていた時代だった。『言海』の場合は、「こ」には「古」を崩した変体仮名「し」には「志」を崩した変体仮名が使用されていて、「に」には「尓」の変体仮名もよく使用されている。また、本文のほとんどのページで、「こと()」の代わりに合略仮名の「」が使用されている。つまり、『言海』の歴史的仮名遣は、現代の一般的な歴史的仮名遣とは異なっている。


③使用される漢字はすべて旧字なので、「五十音図」が「五十音圖」、「体言」が「體言」、「発声」が「發聲」と表記されるなど、旧字を知らないと、まったく別の漢字かと誤解しかねないし、まず文章がきちんと読めない。


④本文庫は、縮刷版『言海』を写真で撮って製版したもの。原本には印字が鮮明な『言海』を選んだとのことだが、原本と同サイズという活字が異常に小さく、しかもカスレている。濁点は潰れていたり、その有無が見分けにくい。とにかく、虫眼鏡が必要なくらい活字が読みにくい。


以上のことを考慮すると、本書を購入する際は、なるべく書店で現物を確かめることをお勧めする。本書は歴史的書物の復刻版なので、明治時代の活版印刷に慣れていないと、相当のストレスが予想される。内容的にも、あの「新解さん」のような面白さを期待すると、おそらくアテが外れる。ようするに、だれもが気軽に読めて、面白い書物ではない。では、そういうレビュアーは本音でどう思っているのかと問われれば、語源に関心を持つ者にとって『言海』は必読書なので、語源マニアの端くれとして、②と④が気にならないことはないが、本書を愛用し続けるだろうと思う。いやそういう前に、まず、この仰天するようなボリュームを見ただけで、大槻先生、凄まじい方だなあ、と心から恐れ入ってしまう。


36人のお客様がこれが役に立ったと考えています
















by mantaiya | 2019-08-02 06:21 | | Comments(0)

homeostasis(ホメオスタシス)




『糖質制限・糖質ゼロのレシピ集』(釜池豊秋著)

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(p.116)


「ケトーシス」と「アシドーシス」

 ケトン体が「異常に」増加すると「ケトーシス」と呼びます。「acidosis(アシドーシス)」は、血液中の酸とアルカリの平衡が破れて、血漿(けっしょう)が酸性に傾くことです。ケトン体は「酸性」なので、ケトン体が増加すれば血液が酸性化する、すなわち「ケトーシス」では「アシドーシス」になる、というのが日本糖尿病学会の見解です。また、その典型が「ケトアシドーシス昏睡」だというわけです。
 糖質ゼロ食では血中ケトン体が「異常に」増加します。しかし、「アシドーシス」にはなりません。なぜなら、酸、塩基平衡は生命維持に基本的なホメオスタシスです。ケトアシドーシス昏睡にみられる、高血糖による「高浸透圧利尿」が「腎性代謝」を阻害しない限り、「ケトーシス」でも「アシドーシス」にはなりません。高血糖にならない糖質ゼロ食では、「アシドーシス」にはならないのです。


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ケトン体は酸性なのでケトン体が増加すれば酸性化する
・・・すなわち「アシドーシス」になるというのが
日本糖尿病学会の見解だ。

しかし、実際は「糖質ゼロ食」では
ケトン体が増加してもアシドーシスにはならない。

homeostasis(ホメオスタシス)が働くからだ。


釜池豊秋医師の講演

https://www.youtube.com/watch?v=tJksEMhuLZk





(私の見解)

常識を疑ふ・・
それが大切だ












by mantaiya | 2019-07-04 18:08 | | Comments(0)

古今和歌集全評釈   片桐 洋一


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三島由紀夫の「古典文學讀本」を讀んでから
「古今集」を讀んでみたくなりました

社會人になり、
一流の華道家のお花を學ぶうちに
最後は「能」・「生け花」・「萬葉集」・
「古今集」・「書」・「お茶」・・
といふものに興味が出てくるのですね


實は假名の練習に選んだ「高野切」が
「古今集」を書寫したものなんです!

だから「高野切」を假名の手本として練習することは
「古今集」の原文を書寫することになるのです

とても有り難い發見でした



古今和歌集全評釈   片桐 洋一_d0335577_07384126.jpeg
年の内に春は来にけり ひと
と勢(せ)を  こ曽(ぞ)とやいはむ ことしとやいは無(む)

↑東(と)しのうち尓(に)はる盤(は)支(き)尓(に)介(け)利(り)ひと
・・・・・・・・

者(は)るの多(た)ち介(け)る ひ よめる

支(き)の徒(つ)らゆき

古今和歌集全評釈   片桐 洋一_d0335577_15322217.jpg
(支→き)



古今和歌集全評釈   片桐 洋一_d0335577_15330316.jpg
(徒→つ)



古今和歌集全評釈   片桐 洋一_d0335577_15334388.jpg
(尓→に)









岩波文庫の「古今和歌集」(佐伯 梅友:校註)は良くなかつた。
片桐洋一先生が良いと思ふ


單行本はプレミアが附いて古本でも
10万円もします!
活字が特に小さい文庫本ではなくて
Kindle版が字が大きくなるのでオススメ

古今和歌集全評釈   片桐 洋一_d0335577_17061070.png

↑三島由紀夫も「古典文學讀本」でも述べてゐたが
著名な文人が言つたことだからといふ先入觀を捨てて
讀むべきだと書いてゐた事が
上記の正岡子規の評論のことを指すと思ふ
8行目:正岡子規が
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
 『再び歌よみに与ふる書』と喝破したのは有名だが・・

私も正岡子規の言葉に惑はされて
「古今集」を敬遠した一人である








by mantaiya | 2019-04-02 08:04 | | Comments(0)