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古典文学読本 (三島由紀夫)

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 私は一度も人に强ひられて日本古典文學の勉强をしたことはない。むしろ私が古い日本語の美しさに目ざめたのは、中學一年生のころ祖母にはじめて歌舞伎へ連れて行かれ、同じころ母方の祖母に能見物に連れて行かれたところに發してゐるやうに思ふ。歌舞伎は「忠臣藏」であり、能は「三輪」であつた。そしてその二つともに私は直ちに魅了され、少しの退屈も感じないのみか、以後折あるごとに兩祖母や母にねだつて、劇場へ連れて行つてもらふやうになつた。


 古い日本語がなめらかに耳にはいり、少年の感受性に「言葉の優雅」といふものを强く刻印したのは、劇場と俳優の力であつたと思ふ。しかし私が文學としての淨瑠璃や能に親しみはじめたのはづつとあとのことだ。

 何か趣味的に擬古典主義といふものが、私の中に育つてゆく素地が養はれたのは、一つはかういふ劇場の力、一つには谷崎潤一郞の中期以後の作品の魅力のおかげであつた。谷崎氏の作品を通じ、またその「文章讀本」を通じて、私は日本古典に對する好奇の目をひらかされて行つたのである。


わが古典---古典を讀む人々へ


 古典と云ふと、萬葉集、源氏物語、近松、西鶴と云ふばかりが能ではあるまい。自分で讀んで、自分の好みの古典を見つけるべきである。國語學者の常識的解釋などにたよつて古典を評價しないこと。

 私の好みからいうと、古今集がまず面白い。古今集の美學は、本當の意味で古典的なものである。情緒的でなく知的であり、均整美に集中され、新古今集のやうなデカダンスがない。平安朝文學では、もう一つ、大鏡をあげておく。線の太い文體で、引きしまつてゐて、何度讀んでも含蓄がある。



最近、松村剛氏が淺野晃氏の「天と海」を論ずる文章を書くに當つて、私にかう問うたことがある。大東亞戰爭末期につひに神風が吹かなかつたと云ふこと、情念が天を動かしえなかつたと云ふことは、詩にとつて大きな問題だが、さう云ふ考への根源はどこにあるのだらうか、と。

私は直ちに答へて言つた。これは古今集の紀貫之の序の「力をも入れずして天地を動かし」だ、と。

私は直ちに答へた。どうして直ちに答へることができたか。ここに私と古今集との二十年以上の結縁(けちえん)があるのだと思ふ。

二十年の歳月は、私に直ちにさう答へさせたほどに、行動の理念と詩の理念を縫合させてゐたのだつた。

若し當時を綿密にふり返つてみれば、私は決してさうは答へなかつただらう。なぜなら古今集のその一句は、少年の私の中では、行動の世界に對する明白な對抗原理として捕へられてゐたはずであり、特攻隊の攻擊によつて神風が吹くであらふといふ翹望(ぎようぼう)と、「力をも入れずして天地を動かし」といふ宣言とは、正に反對のものを意味してゐたはずだからである。正確に想起すれば、十七、八歲の私の中で、「力をも入れずして天地を動かし」といふ一句は、ただちに明月記の「紅旗征戎(かうきせいじゆう)は吾事に非ず」といふ一句につながつてゐたのである。

 ではなぜ、このやうな縫合が行はれ、正反對のものが一つの觀念に融合し、ああして私の口から自明の卽答が出て來たのであらふ。

 いふまでもなく、それは、つひに神風が吹かなかつたからである。人閒の至純の魂が、凡そ人閒として考へられるかぎりの至上の行動の精華を示したのにもかかはらず、神風は吹かなかつたからである。

 それなら、行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか。力をつくして天地を動かせなかつたのなら、天地を動かすといふ譬喩的表現の究極的形式としては、「力をも入れずして天地を動かし」といふ詩の宣言のはうが、むしろその源泉をなしてゐるのではないか。

 このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもつとも淸冽(せいれつ)な詩ではあるが、行動ではなくて言葉になつたのだ。





三島由紀夫著「古典文學讀本」

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【店主の感想】


私も三島由紀夫氏のやうに大學時代に谷崎潤一郞の「文章讀本」を舊漢字·舊假名遣ひの復刻版で讀んでからその魅力にハマり、今でも拔け出せなくなつてゐる。





益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに

幾とせ耐へて今日の初霜





散るをいとふ世にも人にもさきがけて

散るこそ花と吹く小夜嵐





三島由紀夫「辞世」(1970年)











by mantaiya | 2020-01-19 00:05 | | Comments(0)


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